BLOG ブログ
2026.02.17
「忘れる研修」から「呼び起こされる体験」へ。研修に人間中心設計の考え方を応用してみる
多くの研修企画に携わる方々が抱える、共通の悩みではないでしょうか。予算と時間を投じて、社員の成長を支援しようと試みているものの、
中々難しいのが現状です。
教育工学の分野には「学習転移(Transfer of Training)」という言葉があります。研修で学んだ内容が、実際の業務(現場)に適用され、
維持されることを指します。この学習転移に関する古典的な法則に、「ロミンガーの法則」というものがあります。こちらによれば、
研修で学んだ内容が実際に現場で活用される割合は、わずか10〜20%に過ぎないと言われています。つまり、私たちが心血を注いで
作成したスライドやワークショップの8割以上が、現場に戻った瞬間に「なかったこと」になっている可能性があります。
なぜ、これほどまでに定着しないのか。その背景には、情報過多の時代における「詰め込み型教育」の限界があります。
これまでの研修設計の多くはコンテンツが中心でした。
● 「最新のトレンドとして、あれも網羅すべきだ」
● 「1日でできるだけ多くの要素を持ち帰らせたい」
こうした「教える側」の善意は、受講者の脳にとっては「情報の濁流」に例えられます。人間の脳は、文脈(コンテキスト)から
切り離された情報の羅列を長期記憶に保存するようにはできていないからです。
そこで注目したいのが、プロダクトデザインやシステム開発の世界で培われてきた
「人間中心設計(HCD:Human-Centered Design)」の考え方です。
人間中心設計とは、国際標準規格であるISO 9241-210「インタラクティブシステムのための人間中心設計」で定義された言葉です。
定義によると、
「システムの使い方に焦点を当て、人間工学やユーザビリティの知識と技術を適用することにより、インタラクティブシステムをより使いやすくすることを目的としたシステムの設計と開発へのアプローチ」
とのことです。一見エンジニアやデザイナーの方々が実践するものと思われがちなHCDですが、
「ユーザー(従業員)の課題を、ユーザー起点でどのように解決するのか」という課題への向き合い方・施策の組み立て方については、
人材開発の領域でも十分に応用できると考えています。本記事では、このHCDの考え方を学習に応用したアプローチについて、
認知心理学や教育工学のエビデンスを交えながら深掘りしていきます。
研修でよくありがちな「認知負荷」の壁
研修現場でよく目にする「盛りだくさんのスライド」と「分厚いテキスト」。これらは受講者のためを思って用意されていますが、
実は彼らの脳をパンクさせてしまいます。これを理解するために欠かせないのが、認知心理学者ジョン・スウェラー(John Sweller)が提唱した
「認知負荷理論(Cognitive Load Theory)」です。
人間の脳、特に情報を一時的に保持・処理する「ワーキングメモリ(短期記憶)」の容量は、私たちが想像する以上に限定的です。学習プロセスには
以下の3つの負荷が存在します。
1.課題内在的負荷: 学習内容そのものの難易度に由来する負荷。
2.学習関連負荷: 新しい知識を既存の知識体系(スキーマ)に組み込むための、学習にプラスになる負荷。
3.外在的負荷: 分かりにくいスライド、余計な情報、不適切な説明など、学習を阻害する「意図的ではない、本来不必要なノイズ」による負荷。
研修設計における「人間中心」とは、この「外在的負荷」を徹底的に排除し、受講者の限られた脳内リソースを「学習関連負荷」へ集中させることに
他なりません。
「詰め込めばできるようになる」のは本当?
人間中心設計の国際規格であるISO 9241-210では、「ユーザー、タスクおよび環境の明確な理解に基づいて設計する」ことを原則としています。
これを研修に当てはめるなら、「この受講者は、この1時間のセッションでどれだけの情報を処理できる限界があるか?」という
「ユーザー(受講者)」を直視することから始まります。
「何を教えるか」の前に「人間は情報をどう処理するか」を設計の起点にする。このように視点を転換することが、記憶に残る研修への第一歩であるように考えます。
記憶に残る研修設計の3つのポイント
では、具体的にどのようなアプローチをとれば、研修は「現場で呼び起こされる体験」へと進化するのでしょうか。
HCDの視点に基づいた、3つのポイントを解説します。
共感(Empathy)—— 対象とする従業員が何を知っているのか、物事をどう見ているのかを捉える
人間の記憶は、独立したデータの集まりではなく、関連性を持ったネットワークとして保存されます。この知識の枠組みを「スキーマ」と呼びます。
新しい情報は、この既存のネットワークにうまく紐付かない限り、脳内に居場所を見つけることができません。
そのため、設計の第一歩は受講対象者への「共感」です。
例えば、キャリア研修を企画しているとします。その際、いきなり企画に入るのではなく、受講対象者の根底にある価値観や、それらが構成された
社会的背景を理解する必要があります。
例えば、受講対象者数名にインタビューしてみるとどうでしょうか。
「この会社でキャリアを築くイメージが湧かない」
「早くキャリアを築いていかないといけない」というような、周囲には言えない本音が見られるかもしれません。
深い受講者に対する理解から、彼らが大切にしている既存のスキーマに対して、新しい概念をどう接続させるか。これこそが、学びを自分事化させる鍵となります。
人事のみなさまができることとしては、受講対象者に対する事前のリサーチが有効でしょう。「この年次はこういう課題を抱えている」というような
バイアスで企画する前に、定量・定性両側面からインタビュー調査を行うことで、学習対象者がどんなスキーマを持ち、どんな価値観を持っているのかを捉え、共感しながら企画を進めていくことが大切です。
文脈(Context)—— 現場の「空気感」を再現し、想起のフックを作る
覚える力以上に大切なのが「思い出す力」です。心理学の研究によれば、情報を思い出す力は、情報を覚える際の「文脈(コンテキスト)」に強く依存します。
研修が現場で活きない最大の理由は、研修という特殊な文脈で教えてしまっているからです。抽象的な「プロ意識」を言葉で説くのではなく、あえて現場で上司から理不尽なフィードバックを受けた瞬間など、特定の「文脈」を研修内で再現します。その緊迫した文脈とセットで学んだことは、現場で似た状況に遭遇した際、まるで当時の感覚が蘇るように、自動的に脳内で再生されるようになります。
想起のフックを作るうえで特に重要なのが、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のロバート・ビョーク(Robert Bjork)教授が提唱した「望ましい困難(Desirable Difficulties)」という概念です。
ビョーク教授の研究によれば、学習時にあえて「負荷」や「困難」を伴うプロセスを通った方が、長期的な記憶の定着率や応用力(転移)が劇的に高まることが示されています。
・流暢な学習:丁寧に整理された講義を聞き、その場で理解する。心地よいが、記憶はすぐに減衰する。
・困難な学習: 自分の頭で考え、悩み、あえて「失敗」を経験してから正解にたどり着く。苦労は伴うが、脳に深い記憶が刻まれる。
単に「受講者に心地よく学んでもらう」だけではなく、学習者が現場で直面するであろう葛藤や判断の難しさを、研修という安全な環境の中で体験させることが大切です。「この研修、めっちゃ頭を使ったな」「難しかったけれど、自分で答えを出せた」という手応えこそが、現場で学びを引き出すための強力なフックとなるでしょう。
検索(Retrieval)—— 「思い出す練習」をプログラムの主役に据える
「何度も聞く」よりも「一度思い出す(検索する)」行為の方が、記憶を劇的に強化します。これを「想起効果(Retrieval Effect)」と呼びます。
効果的な設計のコツは、講師が解説する時間をあえて削り、学習者が「思い出す」ための作業を増やすことです。
例えば、「いまの話を、自部署の先輩に説明するならどう伝えるか?」といったワークを、研修時間の中に形を変えて組み込んでみるとどうでしょうか。学んだことを思い出しながら取り組むことで、思い出した情報がより記憶として強化されていきます。また、思い出せなかったことについては再度学習することになるので、不足している記憶の補完につながります。
このように、脳から情報を引っ張り出す練習を繰り返すことで、現場という本番のステージでも、必要な学びがスッと引き出せるようになるでしょう。
ケーススタディ:新入社員導入研修のリデザイン
新入社員を対象とした「学生から社会人への転換マインドセット研修」を例に考えてみましょう。入社直後の期待と不安が入り混じる時期、従来のような詰め込み型の設計と、HCDの視点を用いて学習者の体験を起点にした設計では、どのような違いが生まれるのでしょうか。
まず、多くの企業で行われている従来型の研修を振り返ってみます。入社数日目、講師が登壇し、「学生と社会人の違いとは何か」「プロフェッショナルとしての当事者意識とは」といった定義を美しいスライドで解説していきます。様々な著名人の言葉を引用し、最後は「明日からの抱負」をシートに書いて終了するーーー受講者はその場では「良い話を聞いた」と高揚しますが、内容はどこまでいっても「他人事」です。既にビジネス感度のある方であれば既視感を覚えて集中して受講しなくなるでしょう。翌日にビジネスマナーやITツールの説明を受けた瞬間、マインドセットの記憶は上書きされ、現場に配属される頃には「あの時なんて言われたっけ?」と、キーワードすら忘れてしまうのが現実ではないでしょうか。
これをHCDの視点でリデザインしてみましょう。まずは徹底的な「共感」からスタートします。いきなり従来通りの設計に入るのではなく、採用チームと連携し、内定者に対しての調査を実施してみます。アンケートやインタビューを実施することで、こんなことが見えてきました。
・新入社員の半数が既にインターンシップでの就労経験があり、既に「成果を出すビジネスパーソン像」に対してそれぞれのイメージを持っている
・理系職種の方は研究に注力してきたため「社会人は研究の延長線上」として捉えている可能性が高い
見えてきたことを通じて、このような仮説を立ててみます
・既に就労経験のある層は、抽象的かつ普遍的なインプットが続くと既視感を持ってしまい、研修への参加意識が下がる
・就労経験のない理系職種の方々は、従来通りのインプット偏重だと学生時代の経験と結びつかず、こちらが意図しているとおりの認知を作ることが難しいかもしれない
この仮説に基づき、研修を設計していきます。例えば、研修は講義からではなく、いきなりシミュレーションから始めてみるとどうでしょうか。受講者はあるプロジェクトチームに配属されたという設定で、先輩から「過去3年分の会議資料の誤字脱字チェック」という、一見付加価値の低そうな集計作業を依頼されます。「なぜこんな作業を?」という冷めた感情が生まれるように設計してみましょう。
しかし、実はその資料の中には、次回の大型案件を左右する重大な顧客の要望が隠されており、単に指示通りにこなすだけでは見落としてしまう……という仕掛けを施してみるのはどうでしょうか。 ここで、見落としによってシミュレーションが失敗に終わった後、「なぜ作業の背景を確認しなかったのか」「自分ならどう動けたか」を考えてもらえると、様々な気づきがあるでしょう。
この「もっとこうすれば良かった」という悔しさや気づきこそが「望ましい困難」であり、新入社員の脳をフル回転させます。このタイミングで初めて、なぜ「自律」や「当事者意識」が現場で自分を助けるのかを解説すると、恐らく普通に講義するよりも腹落ち度合いは高まるでしょう。
研修のみならず、研修後のアンケートも工夫できます。設問に「この研修で学んだことは何ですか?」というものを用意し、自分なりに言語化してもらう機会を作ります。そうすると学びを再度記憶から掘り起こして自分で言語化することとなるため、より受講者の中での記憶が定着していくことでしょう。
このように、HCDの考え方を応用することで、より効果のある研修を企画設計していくことができるでしょう。
まとめ
従来の「詰め込み型教育」は企業内の人材開発とあまり相性が良くありません。情報そのものの価値が下がり、誰でも検索すれば「正解」に辿り着ける時代において、研修の役割は知識を詰め込むことではなく、成果を出すための行動変容を促すことです。
これからの人事・研修担当者に求められるのは、記憶に残る研修設計です。
研修から現場に戻り、困難に直面したその時、ふと研修での体験が想起され、これまで取らなかった行動が生まれる。そんな「呼び起こされる瞬間」を作るために、私たちは以下の問いを自分たちに投げかけ続ける必要があります。
・このコンテンツは、受講者が受け取り切れない情報量を詰め込んでいないか?
・必要なことを記憶してもらうために、受講者に「心地よい摩擦(望ましい困難)」を提供できているか?
・この学びは、現場のどの「文脈」とセットで記憶されるか?
HCD(人間中心設計)の視点を研修に取り入れることは、受講者を一人の「人間」として尊重し、彼らの持つ可能性を信じることでもあります。「どれだけ教え切ったか」という視点を隣に置いてみて、「現場でどれだけ学びが動き出したか」という研修本来の目的に目を向ける機会になれば幸いです。
参考文献
1.Sweller, J. (1988). Cognitive load during problem solving: Effects on learning. Cognitive Science, 12(2), 257-285. (認知負荷理論の提唱)
2.ISO 9241-210:2019. Ergonomics of human-system interaction — Part 210: Human-centred design for interactive systems. (人間中心設計の国際規格)
3.Bjork, R. A. (1994). Memory and metamemory considerations in the training of human beings. In J. Metcalfe and A. Shimamura (Eds.), Metacognition: Knowing about knowing. MIT Press. (望ましい困難の提唱)
4.Tulving, E., & Thomson, D. M. (1973). Encoding specificity and retrieval processes in episodic memory. Psychological Review, 80(5), 352-373. (記号化特定性原理)
5.Roediger, H. L., & Karpicke, J. D. (2006). Test-enhanced learning: Taking memory tests improves long-term retention. Psychological Science, 17(3), 249-255. (想起効果/テスト効果のエビデンス)


