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人事から営業に転身してつまずいた話 ―「できるはず」という前提とバイアスが引き起こしたリアリティショック―

人事から営業に転身してつまずいた話 ―「できるはず」という前提とバイアスが引き起こしたリアリティショック―
配属後、「なぜあの人は立ち上がらないのか」が分からない——。人事やマネージャーとして、そんなもどかしさを感じたことはないでしょうか。
私自身、人事から営業へ職種転換した際に、まさにその「立ち上がれない状態」に陥りました。
人事としてオンボーディングに関わっていると、「どうすれば早く立ち上がるか」は常に考えるテーマの一つです。
しかし、実際に自分が当事者になってみて痛感したのは、立ち上がれなかった理由は、これまで外側から想像していたものとは大きく違っていました。

今回は、私が人事から営業へ転職した際の実体験を、「人材開発の理論」で紐解いてみたいと思います。
職種転換者がつまずく本当の理由と、その壁をどう乗り越えるべきか。当時の私に伝えたかった教訓をお話しします。

なぜ人事の私が、営業職への転身を選んだのか

前職では45年ほど、採用から育成、アルムナイまで、人事企画領域を一通り経験してきました。
一通りの業務を経験する中で、私はある種の「焦燥感」を抱くようになりました。それは、
「自分の知見に、どこか実感が伴わず、自信が持てない」というものです。

制度設計や施策を考える場面でも、「これが現場にとって本当に適切なのか」と迷いが残ることが多く、自分の中の引き出しの少なさを痛感していました。

「より多くの企業や人事が直面する現場のリアルに触れたい」。

そうした課題感から、私は転職を決意し、顧客の最前線である営業職に挑戦することを選びました。

人事時代に抱いていた「営業へのバイアス」とリアリティショック

意気揚々と飛び込んだ営業の世界でしたが、実は私の中には、人事時代に培われた「営業職に対する強烈なバイアス」がありました。
前職の広告代理店では、営業は「花形部署」で、「優秀でキラキラしている人たち」というイメージを持っていました。

さらに、「商談では即座に打ち返せる」「その場で価値を出さなければ意味がない」と思い込んでいました。
そんな営業への過剰な理想像を無意識に持っていたのです。

この「営業への過剰な理想像」が、入社後の自分に強烈なプレッシャーを与え、
大きなリアリティショック(入社前後のギャップによる戸惑い)を生むことになります。

 「1時間の意味」の違いと、学習転移の難しさ

転職して最初に衝撃を受けたのは、1回の商談時間に求められる「意味」が、人事の仕事とは根本的に違うという点でした。
入社間もない頃、初回のヒアリングに同席したときのことです。

お客様の課題はある程度聞き出せており、自分の中にも「こういう方向で進めたほうが良い」という仮説はありました。
しかし、それを「提案」としてその場で言い切ることができませんでした。「的を射たものを打ち返さなければ」という
プレッシャーで言葉に詰まり、結局「持ち帰ります」と曖昧に終わってしまいました。

もちろん人事の仕事でも意思決定を前に進める力は求められます。
ただ、人事は社内MTGが多く、「検討や相談を重ねるプロセスの時間」になりやすい一方で、
営業は「限られた時間の中で意思決定を前に進めるための時間」として使われます。
同じ1時間でも、求められる価値が異なることに気づかされました。

人事と営業職の判断観点の違い(私が感じたもの)

観点

人事

営業

商談で重視すること

情報整理・認識合わせ

意思決定を前に進めること

判断材料にするもの

社内の整合性・運用への影響

相手の課題・緊急度・次の一手

価値の出し方

組織への支援・最適化

相手の決断を促し、成果へ繋げる

この違いは、単なるスキルの差ではなく「何を価値とするか」という前提条件の違いでした。
私は「人事の価値基準を握りしめたまま営業をやろうとしていた」ために、動けなくなっていました。

人材開発の領域では、こうした現象を「学習の転移(過去の経験が新しい学習に影響を与えること)」と呼びます。
私の場合は、過去の成功体験が新しい環境でマイナスに働く「負の転移」が起きていたと言えるでしょう。

「できるはず」の正体:ダニング・クルーガー効果

動けなくなったもう一つの理由は、「自分はある程度できるはずだ」という思い込みによる罠でした。
社会人経験を積み、人事も経験してきた自負から、「早く成果を出さなければ」と自分を追い込んでいました。
しかし実際は、「何を基準に判断すればいいのかさえ分からない」という状態でした。

心理学では、経験や知識が十分でない領域ほど、自分の能力を適切に見積もりにくい傾向があるとされています(ダニング・クルーガー効果)[1]
私の場合も、人事経験があることで「営業でもこれまでの領域と親和性があるため、ある程度はできるはず」と思い込んでしまい、
自分が何を分かっていないのかを把握できていませんでした。

「これは人間のバイアスであり、最初は誰でも自分を高く見積もってしまうものだ」と客観的に自覚できていれば、
もう少し穏やかなメンタリティで入社当初を過ごせたのかもしれません。

なぜ判断軸は伝わらないのか?:暗黙知と熟達化

では、なぜ「営業としての判断軸」はなかなか身につかなかったのでしょうか。
そこには、業務マニュアルには決して現れない「暗黙知」の壁がありました。

マイケル・ポランニーの「暗黙知」や「熟達化理論」では、『人は熟達するほど、判断プロセスが無意識化され、言語化できなくなる』とされています[2]

優秀な営業ほど、「なぜその場面でその提案をしたのか?」を感覚的に処理しており、それをマニュアル化することは困難です。
新参者だった私は、表面的な「How(やり方)」をなぞるだけで、その裏側にある「Why(判断の根拠)」が掴めず、
暗闇の中を歩いているような苦しさの中にいました。

職種転換でつまずかないためのアプローチ(当事者編)

こうした私のつまずきと、要因となりそうな理論的背景を踏まえ、異職種へ挑戦する方が
つまずきから早く抜け出すためには何が必要なのか、考えてみました。

過去の成功体験を「アンラーニング(学習棄却)」する

先ほど触れた「負の学習転移」を防ぐため、前職で培ったスキルや価値観を一度脇に置き、「前の部署ではこうだった」という感覚を
意識的に切り離すことが重要です。事業ドメインへの理解はあっても、新たな職種での業務は初めて。
「改めてゼロから学ぶ」という素直さが、新しい価値基準の吸収を早めるはずです。

「わからない」を言語化し、判断軸をすり合わせる

スキルや手順を覚える前に、「この部署では何を基準に意思決定しているか」という考え方の部分を上司に確認します。
「何が分からないかが、分からない」と素直に開示できる関係性を自ら築くことが重要です。

これらを踏まえて、もし私が入社当初に戻れたとして、今の私なら以下の3つを徹底します。

周囲の営業に「なぜそう判断したのか?」を執拗に聞く

表面的な「How」を真似るのではなく、暗黙知である「Why」を自分から取りにいきます。成果を出している人の「判断軸」を、
少しうざがられるくらいに言語化してもらうよう働きかけます。

「自分の思考の癖」をあらかじめ周囲に開示しておく

「これまでの経験から、どうしても人事的な視点で考えてしまう癖があります」と、自分のバイアスを共有しておきます。
そうすることで、周囲がフィードバックしやすくなり、自分も「わからない」と言い出しやすい環境を作れます。

「小さな定性的成長」を自分で承認する

「自分はできるはずだ」というプレッシャーを手放し、できない自分を認める強さを持ちます。数字という結果が出ない時期こそ、
「相手の課題の捉え方が変わった」といった自分自身の定性的な変化を承認することが、折れないメンタリティに繋がります。

あくまで私の仮説ですが、職種転換が伴う異動や転職があった方については、このような行動・意識を持つと良いのではないでしょうか。

職種転換者をどう支援するか(受け入れ・人事編)

逆に、受け入れ側のマネージャーや人事は、どう支援すべきでしょうか。
私が「自分自身の受け入れ担当」だとしたら、以下の3点を意識します。

入社前から「営業のリアリティ」を伝えておく

内定段階で、営業の厳しさやリアルな実態を伝えます。入社前の過剰なイメージを適正化し、心の準備を促すことで、
リアリティショックを和らげます。こうした関わりができれば、私自身の入社初期の過ごし方も変わっていたかもしれません。

手順ではなく「特有の頭の使い方」を言語化する

業務手順(How)だけでなく、「なぜそう判断したのか(Why)」という社内のハイパフォーマーの思考プロセスを意識的に言語化して伝えます。
見て学ぶことが難しい現代において、そうした考え方を意識的に伝えることは非常に大切であるように感じます。

「具体的なプロセス」を承認し、心理的安全性を担保する

職種転換者は「できるはず」というプレッシャーと戦っています。根拠のない称賛ではなく、「ヒアリングのこの質問は良かった」といった
具体的な行動を承認することで、「わからない」と言える安全な学習環境を作ります。

まとめ

職種転換時におけるオンボーディングとは、単に知識を教え、業務を覚えてもらうことではありません。
「その職種としての『世界の見え方』をインストールすること」だと、当事者となって痛感しました。

オンボーディングの最中には、マニュアルや形式的なフィードバックだけでは拾いきれない「暗黙知」が無数に存在します。
職種転換者が立ち上がれないとき、足りていないのはスキルではなく、「その仕事をどんな視点で捉え、どう判断するか」という基準そのものなのかもしれません。

人事や受け入れ現場には、業務知識の付与だけでなく
「価値基準の翻訳」と「安全な学習環境づくり」を含めたオンボーディング設計が求められているのではないでしょうか。

参考文献

[1] Kruger, J., & Dunning, D. (1999). "Unskilled and Unaware of It: How Difficulties in Recognizing One's Own Incompetence Lead to Inflated Self-Assessments". Journal of Personality and Social Psychology, 77(6), 1121-1134.

[2] マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』(高橋 勇夫 訳、ちくま学芸文庫、2003年)