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COLUMN

2023.03.29

社会人としての「自立」と「自立支援」を考える

社会人としての「自立」と「自立支援」を考える

はじめに

 昨今、コロナ禍でのテレワークによるマネジメントや周囲状況を把握することの限界や、予測不能な時代における唯一の解というものがさらに虚構となる中、「自立」というものが打ち合わせや様々な記事で議題に挙がる機会が多くなっているように感じています。

 自立という言葉は、一見何も問題のないものであり、推進していくことが是だと思えるような言葉に思えます。しかし、私たちは、そうした言葉にはより一層の注意を払う必要があるのではないでしょうか。自立とは「自ら立つ」、つまり「依存をしない」ということを指します。しかし、ここで重要なのは、「何に」依存をしないのか、ということです。例えば、これを人への依存をしない、ということになると、「独力で頑張れ」というメッセージになります。しかし、予測不能で直接的な対人関係が切断、減少した現状で、このような独力で頑張れというのは孤立につなげるものとなります。そして、そもそも1人で成果を上げることにも限界があります。

 実際に近年においては、メンタルヘルスの課題が論点に挙がっていますが[i]、まさにこうした先行きの見えない中、独力で頑張らなければいけないという不安と孤立感が原因だといえないでしょうか。ビジネスの世界に入ったばかりの若手にとって、この言葉はあまりにも重く、辛いものだと感じています。だからこそ、今回は今一度「自立」という言葉を問い直し、育成する側や若手が今後この言葉を考える上で何かしらのヒントになるものがないかを探っていきます。

我々が考えがちな「自立している人間像」とは

 「自立している人間像」とは、困難に対し、主体として自らの力で切り拓いていく、そんな姿をイメージするのではないでしょうか。 そして、すべての社員に対し、そうした姿を体現できるように成長し成果を上げてもらうことが重要であると。 ビジネスの現場では、一人で頑張らなければいけないような場面で、一人で頑張る姿を是としていることも多くあるように見えます。

 こうした自立像が望まれているものの、もう一方で組織のルール・暗黙の了解は守ってほしいという、まさに自立と服従のダブルバインドに社員は身を置かれることになります。 なぜそのようなことが起きるのでしょうか。それは、独力ですべてをこなし、組織にも従順でいてほしい。悪く言うと「都合の良い社員でいてほしい」という願いが込められているといえるのではないでしょうか。 

 しかし、この自らの力で切り拓いていくという姿は、ある一つの特徴を持っているといえます。それは、誰からの支援も受けない存在であることです。一人で予測不能な社会の中を生き抜く力を身につけているということ。その存在は、確かに企業として独力で利益を上げるという点では魅力的でありますし、私たちはこうした文化的な価値観を学習してきています。フェミニズム運動から社会における問題点を鋭い視点で切り込む哲学者のジュディス・バトラーは著書で、このような人間像について下記のように述べています[ii]

 “彼はどういうわけか、最初から、常に既に直立していて、能力があり、他者たちに支えられたこともなく、自分自身を安定させるために他人の身体にしがみついたこともなく、自分自身で食べられないときに食べさせてもらったこともなく、他の誰かに毛布に包まれて暖をとったこともないのである。”

 私たちはなぜか、こうした成長過程や依存的一面を排除した人間像が正しいと認識しているように思えるものなのです。

 しかし、こうした存在には大きな疑問が残ります。それは、果たして組織への忠誠や善き関わりをもつことが出来るのだろうか、ということです。ある種、その存在は非情でもあるといえます。なぜならば、独力で生きていけるからこそ、組織に対してドライな目線で常に評価のまなざしを持ち、自身の欲求を阻害するものや、自らが求める自立に達していない 他者や組織を切り捨てることも厭わない存在であるとも言えるからです。それは、「自分が頑張ってきているのだから、周りもそうするべきだ」というように。

 ここまで述べてきたことをまとめると、私たちは「自立した姿」を「独力で頑張る姿」としており、それは企業にとって都合の良い存在であるものとなります。しかし、その自立した個人は、独力で動き、従順であるように見えて、実は「非社会的な存在」として、いつでも組織や他者を見放すような存在でもあるのではないかということです。

自立という言葉に消される人本来の姿

 おそらくここまで読んでいただく中で、「自立した個人というものはそういうものではない」と違和感を持っていらっしゃる方もおられると思います。先ほどまでの話は、ある意味極端な自立観であり、そうではない自立観を持っている方もいらっしゃるからです。そうした方々は、多くのよりどころを持ちながら自らを自立させ、協働していく、という自立像のイメージを持っているからではないでしょうか。私が今から述べていきたいのは、この自立する姿が有する要素についてです。

 ジュディス・バトラーは先の著書で、「人は元来、相互依存的な関係である」と述べています。そもそも、私たちは生まれた瞬間から一人ではなく、そして生きているこの瞬間も他者(自分以外のすべてのもの)の関係性の中で生きています。つまり、私は社会によって構成されているといえます(同時に私は社会を構成しているともいえます)。

 上述したことは、言ってしまえば当たり前のことです。しかし、少し思い返してみると、自立しているビジネスパーソンをイメージしたとき、2種類の姿をイメージするのではないでしょうか。

A|他者の存在の有難さを理解し、他者を尊重し、支配するのではなく協働することで成果を上げるビジネスパーソン

B|独力で成果を積み上げ、競争の中を勝ち上がっていくビジネスパーソン

 ここで問題となるのはBの方で、Bと評価されるようなビジネスパーソンの自己意識がAである場合は大きな問題は起きないかもしれません。しかし、自己意識自体が、Bのように「独力で突き進む」というものである場合、それは他者の存在を無視し、ないがしろにした状態で「自分は独力で頑張っている」と思っていることになります。こうした姿は、アメリカの新自由主義と自己責任の社会でよく見られ、その姿についてアメリカの経済学者であり、市場原理の課題や人の正義というものについて研究しているマイケル・サンデルは、著書で下記のように警鐘を鳴らしています。

“その人の実力は外部環境に多く影響を受けるのだが、そうしたことを無視し、すべては自らの力で成しあがってきたと曲解することにより、今ある現状は当人の自己責任であると認識してしまっている”(筆者要約)[iii]

(反対意見として、生まれた場所に困難があったとしても努力で脱却してきたと考える人もいるかもしれません。しかしそれは、当人の努力を見てきて認め、応援してくれた他者という存在がいた故であり、そうした環境すらないことも往々にしてあるからです)

 こうした独力で生きてきたと考える人は、知らないうちに「他者より優れている自分」という自己イメージを強め、今の発揮能力の差で人間を価値づけ、判断してしまいます(あいつは成果を上げていない、だから人間としてダメなんだ、というように)。

 こうした社員がいる、もしくは大多数を占める組織をイメージしたとき、果たしてその組織は良い組織だといえるでしょうか。発揮能力や、言動の違いを短期的な視点、画一的な基準で評価し合い、それを「人間としての価値」にまで当てはめてしまう組織はどうでしょうか。自身の発言によって、人として無能と思われるかもしれないという恐れのある関係性に、心理的安全性はあるといえるのでしょうか。

 こうした価値観が蔓延すると、表向き、表面は仲良くしているようにも見えるかもしれませんが、そこには見えない優劣の線引きや評価を下しあっているような組織となり、人はその優劣の線引きを伺いながら行動するようになってしまいます。もちろんその恐れを利用したマネジメントや成長への動機づけもできるのでしょうが、その優劣の線引きは可変的で、常に一定の「できない人間」を見つけたがります。そして、その線引きが高くなればなるほど、無力感と諦観を持つ人材が増えるとともに、いつ周囲に「劣」の評価を付けられるかを恐れ、信頼し合えない風土を醸成することにならないでしょうか。

相互依存を前提とした自立に必要なこと

 私たちが自立を語るとき、上記のように「相互依存」という大前提を失わせたものでは大きな課題があるのではないかと述べました。そのうえで、我々が目指す自立とは何なのかを考えていきたいと思います。

 そのヒントとして、日本の社会教育研究を専門にしている研究者である黒沢惟昭が述べる社会教育における自立概念があります[iv]。そこでの自立、つまり何からの服従から脱却しているかというと、それは権力(ヘゲモニー)です。強制力を働かせる権力に対し、そのまま服従するのではなく、本当にそれが良いことだといえるのか?という問いを自らの中に持ち、考え行動することです。

 例えば、ビジネスの場において、上からの方針をそのまま鵜呑みに服従するのではなく、ビジネスの根幹である「誰」に「何」をするのか、その価値を自ら考え、行動することであるといえないでしょうか。もちろん、組織の中で他者という存在を差し置いて、勝手に行動することは、他者の尊重にはなりません。だからこそ、自らが考えることを関係性の中に投げかけ、同時に自らも自身が投げかけた問いや、他者のその問いに対する回答に対して”どう答える(応える)のか”ということではないでしょうか。黒いカラスを白だと服従させる、あるいは服従させられるという話ではなく、そもそも黒の見え方は人によって異なるという多様性を理解し、各々の見え方の違いを理解していくことが重要なのではないでしょうか。

 アメリカ成人教育の祖と言われるエデュアード・リンデマンは著書において、「創造性は、他者や現実との葛藤の中で生まれる」と述べています[v]。まさに、こうしたお互いの違い、願望というものを場に出し、互いの葛藤の中で新たなものを導き出していくこと、そうした営みが大切なのではないでしょうか。ここで大切なのが、その場にいる自分が「何を応答するのか」ということです。そして、これこそがresponsibility(応答する能力)、その場における「責任」であるということになると考えています。この現状に対し、どう応答するのか、その問いの基準となるのは善なのか、価値観なのかは今回言及することは難しいですが、とにかく、状況からの問いに対し、自ら考え行動することが自立であるともいえます。

まとめ

 「独力で頑張る」という姿は虚構であり、ある種の人工的に作られた人間像であり、価値観です。しかし、それは人本来の相互依存的な関係という大前提を棄却してしまうものです。それゆえ、次のように私は自立を捉えます。 

自立とはなにか

  • 我々は相互依存の関係性の中に存在しているからこそ、その場に対する「応答」の在り様を自ら考え、行動すること

  • 権力(ヘゲモニー)に盲目的に服従しない(=自立した)姿から上記を行うこと

 こうした捉え方をすることで、「独力」という虚構を基準にせず、組織の命令に服従し、時には不義を見て見ぬふりするようなことはなく、職務や役割、その時の状況を踏まえたうえで、自らに問われていることに対し真摯に向き合う姿が浮き上がります。加えて、その姿は、「依存しているがゆえに存在できている」という有難さからの自他尊重(あなたが存在しているから、私は存在でき、同様に私が存在するがゆえに、あなたは存在しているということ)が前提としてあります。その応答の仕方に個としての多様性が出つつも、周囲との協働や葛藤の中での創造性、そしてその営みの中での相互の学びと変容が起きることになります。 

具体的にどうすればよいか

 概念的な話が続いたため、具体的な手法について述べると、下記のことが重要だといえます。

  • ヘゲモニー (権力)に盲目的に服従(依存)させないためにも、whyを伝え、その物事の判断ができるようにする

 頭ごなしの服従を求めることは、強制力を持ったパワーへの依存を増長させ、それは自らが応答する機会を奪うことにもなります。そして応答を失った行為について、責任は発生しないという意識(他責)にもつながってしまいます。

  • 物事の判断において、当人が「それで良いのか」を問いかける

ー そもそも問われていることは何か
ー 自身が果たすべき・果たしたいということは何か
ー 中長期的に見たうえで、後悔しないといえる判断なのか

 特に若手は、その判断の軸となる現状の価値観を理解すること、周りや組織の価値観を理解することが大事であるといえます。お互いが協働するためには、表面に見える行動だけではなく、その奥にある価値観や、自他が置かれているコンテクストを理解することが必要になります。そして、ビジネスを含めた人生経験から移ろいゆく価値観の変遷にも目を向けていき、その変化に自分がどう思うかを内省する機会も重要であるといえます。

 以上、相互依存関係の中において、どのように応答するか自ら考え行動すること、それを体現できる若手を育成することは決して楽なことではなく、むしろ困難や葛藤を強いるものでもあると感じています。しかし、予測不能な時代だからこそ、あらためて自立とは何かについて考え、自立した若手の人材育成という難しい壁にチャレンジし、トライ&エラーを繰り替えすことが重要だと考えています。
 最後に、本記事が少しでもみなさまの組織開発・人材育成のヒントになれば幸いでございます。

 

参考文献

[i] 「大企業における産業医活用」の実態調査 株式会社メンタルヘルステクノロジーズによる調査
    https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000051.000027306.html

[ii] ジュディス・バトラー著 佐藤 嘉行 清水 知子訳「非暴力の力」2022


[iii] マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳「実力も運のうち 能力主義は正解か」2021

[iv] 黒沢 惟昭著 「生涯学習体系化における社会教育の再生」1992

[v] エデュアード・リンデマン著 堀薫夫訳「成人教育の意味」1996

 ※発行年は、すべて翻訳書のもの